カシオの歴史

創業

1946(昭和21)年

4月

東京都三鷹市に樫尾製作所を創業

1946(昭和21)年4月 樫尾忠雄、樫尾製作所を創業

カシオ計算機の創立者である樫尾忠雄(故人)は1917(大正6)年、高知県久礼田村(現在の南国市)に生まれました。1923(大正12)年の関東大震災の後、東京で働いていたおじに誘われ樫尾一家は上京。忠雄は高校卒業後、見習いの旋盤工として働き始めました。腕の良さを見込んだ工場主に勧められ、働きながら早稲田工手学校(現在の早稲田大学)に通って技術を習得。いくつかの職場を経験し、鍋や釜、自転車の発電ランプなどを作っていましたが、評判が伝わって部品加工の下請けを頼まれるようになり、1946(昭和21)年、東京都三鷹市に「樫尾製作所」を設立して独立を果たします。

施盤工時代の樫尾忠雄

1954(昭和29)年

12月

小型純電気式計算機(ソレノイド式)試作機完成

1954(昭和29)年12月 小型純電気式計算機(ソレノイド式)試作機完成

樫尾製作所は、顕微鏡の部品や歯車などを作る小さな下請け工場でした。
忠雄の下には俊雄、和雄、幸雄の三人の弟がいました。俊雄は技術者として逓信省東京逓信局(現在のNTT)に勤め、電信施設の敷設や整備をしていましたが、日々汗を流す忠雄を見ながら「自分が何か発明して、兄を助けることはできないか」と考え始めます。考えることが好きな俊雄は小さい頃からエジソンに心酔し「将来は発明家になるんだ」と家族に語っていました。豊富な電気の知識を備えた俊雄は職場でも既にシステム改善の実績を挙げていましたが、自分の才能を試してみたいと考え、仕事を辞めて樫尾製作所に加わります。

持ち前の発想力を活かし、俊雄は数々の発明を試みます。そのひとつが「指輪パイプ」でした。戦後間もない当時は物資が不足しており、誰もがたばこを根元ぎりぎりまで吸っていました。そこで俊雄は仕事をしながらでも吸えるように、たばこを差せる指輪型のパイプを考案しました。忠雄が旋盤を駆使して作り、父親の茂が売りに出かけ、やがて徐々に引き合いが増えて、「指輪パイプ」は作るそばから売れるヒット商品になりました。これで得た利益が、後に計算機開発の資金として役立つことになります。

指輪パイプ。たばこの火が指につかないよう、角度に工夫がこらされています。

指輪パイプの次の商品を模索していた樫尾兄弟は1949(昭和24)年、東京・銀座で開かれた第一回ビジネスショウで外国製の「電動計算機」を目にしました。 当時の計算機は現在のような電子回路を使ったものではなく、歯車で動く機械式が主流でした。日本で主に使われていたのは、手でハンドルを回して歯車を動かす「手回し式計算機」でした。海外ではすでにモーターで歯車を回す電動計算機が登場していましたが、部品の加工に高品質な材料と高い加工技術が必要になるため、日本では製造できませんでした。電動計算機は手回し式よりは速かったものの、現在の計算機と比べて非常に遅く、また歯車を高速で回すため、けたたましい騒音を出していました。電気の知識があった俊雄は「機械的な部品を使わず、すべて電気回路で処理すれば、様々な問題が解決するのではないか」と考えたのです。「計算機を作ろう」。俊雄はソレノイドという一種の電磁石を使って、歯車のない電気式計算機の開発にとりかかります。

昼は生活するための下請け仕事をこなし、夜に計算機の開発に没頭する日々が始まりました。できた試作品を人に見せ、意見を聞いては改善を繰り返し、機械の不具合を克服しながらの試行錯誤が続きます。10回以上もの試作品を経て1954(昭和29)年、ついに日本で初めての電気式計算機が完成しました。翌年、樫尾兄弟は完成品を意気揚々と、当時、計算機を扱っていた商社の「文祥堂」に持ち込みました。ところが文祥堂の担当者からは、この計算機は残念ながら時代遅れだと告げられます。かけ算の答にまた別の数をかけ合わせる「連乗機能」がなかったのです。

再び試行錯誤の日々が始まりました。弟の和雄、幸雄もそれぞれの仕事を辞めて、樫尾製作所に加わります。俊雄がアイデアを考え、大学で機械科にいた幸雄が図面を引き、忠雄と和雄が作るという分業体制ができあがります。開発開始から七年目の1956(昭和31)年、連乗機能もついて計算機は完成間近となり、量産まであと一歩というところまで到達しました。そんな中、俊雄は突然「もう一度最初からやり直したい」と言い出したのです。複雑な機械的機構を持つソレノイド式は、量産に困難が伴う可能性がありました。俊雄の提案はソレノイド式をやめて、当時の電話交換機などに使われていたリレー(継電器)を使い、純電気式の計算機を作ろうというものでした。

当時、既にリレーを使った大型コンピュータは登場していたものの、ビルの一室を占領するほど巨大な上、空気を清浄に保つ必要がありました。リレーには、微細なゴミに影響されやすいという弱点があったのです。これらの短所を克服し、一般のオフィスでも使えるように、工夫が凝らされました。まず回路設計の改良により、大型コンピュータでは数千から1万個以上もあったリレーを341個に減らしました。さらにリレーは微細なゴミによる接触不良を起こさないよう、全て独自に開発したのです。

最大の特徴は「テンキー」の採用です。当時の計算機は現在と違い、すべての桁に0~9までの数字キーがついている「フルキー」を採用していました。ところが新開発のリレー式計算機は、現在の電卓と同じように、数字キーが全体で10個しかありませんでした。

14-A

表示にも独創的なデザインが採用されていました。当時の計算機には3つの表示窓があり、「100+200=300」と計算する時には「100」「200」「300」すべての数が同時に表示されていました。ところがリレー式計算機では、入力した数は消えて、最後に答だけが表示されるようになっていました。現在では当たり前のこの方式も、当時は常識破りとされ、受け入れられるまでには大変な苦労を要しました。しかしこれらの工夫のおかげで小型化が実現し、オフィスで使える事務用計算機が完成したのです。

主な特長 四則算:14桁定
数記憶:5桁3組
主要素子 リレー
寸法 幅1080mm、高さ780mm、奥行445mm
重量 140kg
価格 485,000円

1957(昭和32)年

6月

世界初の小型純電気計算機「カシオ14-A」商品化、カシオ計算機(株)を設立

1957(昭和32)年6月 世界初の小型純電気計算機”カシオ14-A”商品化、カシオ計算機(株)を設立

1956年の暮れ、完成した計算機を札幌で発表することが決まりました。ところが計算機を羽田空港で飛行機に積み込む時に、問題が発生します。「載せられる大きさの規定を超えています。頭の部分を取り外してもらえませんか」係員からそう言われ、兄弟は青ざめました。表示部やキーがついたこの部分は、計算機にとって非常に重要です。「動かなくなったら困る」と抵抗したものの、結局は計算機を分解して積むことになりました。札幌に着いてから再び組み立てると、恐れていた通り、計算機は動かなくなっていました。必死の修理も空しく完全には回復せず、スライドを使って説明はしたものの、発表会は失敗に終わってしまいました。

しかし、落胆して帰ってきた兄弟のところに、株式会社内田洋行の担当者が「計算機を見せてもらえますか」と訪れてきます。発表会を見た札幌の支店長が「扱ってみてはどうか」と本社に提案していたのです。内田洋行は以前、下請けを樫尾製作所に発注していたことがあり、樫尾兄弟への信頼がありました。七年間の開発の苦労がついに報われたのです。内田洋行を総販売代理店とする契約が交わされ、リレー式計算機の開発・製造会社として、1957(昭和32)年6月、カシオ計算機株式会社が設立されました。社長には兄弟の頼みで、父親の茂が就任することとなりました。

樫尾四兄弟、左から俊雄、和雄、忠雄、幸雄

<CASIOブランドの由来>
創業時から、樫尾兄弟は「世界中の人々に計算機を使っていただきたい」という理想を抱いていました。そのため、製品のブランドは「KASHIO」ではなく、スマートで世界中の人々におぼえやすい「CASIO」としました。

CASIO
ブランドロゴ(現在)

1960年代

1960(昭和35)年

4月

東京都北多摩郡大和町(現在の東大和市)に東京工場完成

1960(昭和35)年4月 東京都(現在の東大和市)に東京工場を建設

リレー式計算機は大手企業や研究機関を中心に順調に販売実績を重ね、会社は成長を続けました。増え続ける需要に応えるため、1960(昭和35)年には東大和市に新工場を建設し、フル稼働で生産を開始。新製品の開発にも力を注ぎ、電動タイプライターと連動した帳票自動作成機「タックコンピュライタ」、科学技術用計算機「AL-1」など、新しいタイプの計算機を次々に発売し、市場をリードし続けました。

生産風景(東京工場)
タックコンピュライタ 科学技術用計算機AL-1
5月

樫尾忠雄、社長に就任

1962(昭和37)年

3月

営業部門を新設し、代販と直販の2販売体制に移行

1965(昭和40)年

6月

(株)内田洋行との総代理店契約を解消し、同時に代理店50余社を引き継ぐ

9月

メモリーつき電子式卓上計算機「カシオ001」発売

1965(昭和40)年9月 メモリーつき電子式卓上計算機“カシオ001”発売

リレー式計算機で会社が順調に業績を伸ばしていた最中、技術革新の波が訪れます。真空管を使った電子式計算機が英国で登場し、やがて新発明のトランジスタを用いた製品が国内メーカーから次々に発表。電子式計算機はリレー式よりはるかに高速で全くの無音、さらに机の上に置けるサイズにまで小型化されていました。この電子式の登場で、リレー式計算機の販売は急速にしぼみ、在庫の山を築くことになります。電子式の研究はおこなっていたものの、リレー式計算機が好調だったため、他社に遅れをとっていたカシオは創立以来初の危機に立たされます。

電子式に対抗すべく新たに開発したリレー式計算機の説明会で、経営陣は「既にリレーの時代ではない」「カシオは電子式を出さないのか」と販売店から詰め寄られ、迷った末、密かに研究していた電子式の試作品を見せることを決意します。配線むき出しのまま見せられた試作機に「これです!」「これを出してくださいよ!」力強い反響が返ってきました。この日からカシオは電子式への転換に全力を注ぎ、1965(昭和40)年に最初の製品「001型」を発表。他社機にはなかったメモリー機能を備えた「001型」は好評を博し、再び計算機事業は成長軌道へと復帰しました。

電子式1号機「001型」
主な特長 四則算:10桁(積:20桁)
記 憶:10桁1組
定数記憶:7桁1組
寸法・重量 幅370mm、奥行480mm、高さ250mm、重さ17kg
価格 380,000円

1966(昭和41)年

6月

本社を東京都北多摩郡大和町(現東大和市)に移転

9月

電子式卓上計算機を海外に初輸出

1966(昭和41)年9月 電子式卓上計算機を海外に初輸出

電子式卓上計算機「001型」は順調に売れ、海外からの商談も持ち込まれ始めます。世界へ進出する好機を得たカシオは、海外向けに改良を施した「101」を開発し、1966(昭和41)年、オーストラリアに第1号機を輸出します。翌年にはスイスにヨーロッパ事務所を設立、1970(昭和45)年には米国に現地販売会社カシオインク、1972(昭和47)年にはドイツに同じく「カシオコンピュータ」(現・カシオヨーロッパ)を開設し、世界へ拠点を広げていきます。

101

1967(昭和42)年

3月

スイス・チューリヒにヨーロッパ事務所を開設

9月

アメリカ・カナダ市場に進出(コモドア社へのOEM)

10月

世界初のプログラムつきの電子式卓上計算機「AL-1000シリーズ」発売

1967(昭和42)年10月 世界初のプログラムつきの電子式卓上計算機「AL-1000シリーズ」発売

販路を広げる一方で、多彩な新機種の開発が進められました。パッチボード上で線をつなぎ変える操作を不要にし、世界で初めてソフトウェアでのプログラム計算を実現した「AL-1000」は科学技術計算や事務計算に幅広く使われました。また、パンチカードによるプログラム記録とプリンタ装備という2つの「世界初」を備えた「PR-144」など、世界初の機能をいち早く世に送り出し続けました。

AL-1000

1969(昭和44)年

10月

山梨県中巨摩郡玉穂村に甲府工場完成

1969(昭和44)年10月 山梨県中巨摩郡玉穂村に甲府工場完成

既に電卓メーカーとしてトップグループを走っていたカシオの生産能力を、3倍以上の月産1万台規模に引き上げるべく、甲府工場(現甲府カシオ)は建設されました。それまでの主力生産拠点であった東京工場をゆうに上回る3,600平方メートルの1号棟がまず完成。さらに2年後には2号棟、4年後には3号棟が完成。後の大ヒット商品であるパーソナル電卓「カシオミニ」の生産を担当し、カシオグループの主力生産工場として発展を続けることになります。

稼働中の甲府工場