樫尾忠雄Tadao Kashio
次男・俊雄の発明を製品化
カシオ計算機の前身である樫尾製作所時代。もともと手先が器用で、優れた加工技術を持っていた樫尾忠雄は、発明家である次男の俊雄のアイデアを次々と形にしていきました。「小型電気式計算機(ソレノイド式)試作機」や「リレー計算機」などの計算機開発をけん引し、カシオの黎明期の支えました。
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樫尾和雄Kazuo Kashio
製品価値を⾒抜き、
新たな市場を創造
カシオ計算機の営業担当だった樫尾和雄は、市場の動きを読み取る先見力を持ち合わせていました。世界初のパーソナル電卓「カシオミニ」や、耐衝撃ウオッチ「G-SHOCK」、世界初の液晶モニター付き民生用デジタルカメラ「QV-10」などの可能性を見抜き、大ヒット商品に育て上げるとともに、全く新しい市場を創造しました。
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樫尾忠雄Tadao Kashio
資⾦調達の責務を果たす
「電卓戦争」に勝ち抜くために、樫尾忠雄は経営資本の充実を図るべく、東京証券取引所への株式上場を決意。資金調達の環境を整えることで、開発力・生産力・販売力のさらなる向上を目指しました。また1985年、社会が急激な円高に見舞われた際も、総額858億円もの社債を発行して財務体質を強化。厳しい経営環境の中でも、企業体質の強化に尽力しました。
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樫尾俊雄Toshio Kashio
「指輪パイプ」を発明
発明家の樫尾俊雄は持ち前の発想力を生かし、数々の発明を試みます。その一つが「指輪パイプ」。戦後間もない当時は物資が不足しており、誰もがたばこを根元ぎりぎりまで吸っていました。俊雄は仕事をしながらでも吸えるように、たばこを差せる指輪型のパイプを考案し、ヒット商品に。これで得た利益が、後に計算機開発の資金として役立ちました。
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樫尾俊雄Toshio Kashio
リレー計算機「14-A」を発明
樫尾俊雄は、従来の計算機が1回の乗除算に10秒程度かかること、歯車の高速回転により騒音が発生してしまうことに着目し、全く新しい発想のリレー計算機「14-A」を開発します。オフィスに設置できる机サイズにするとともに、乗除算も5〜6秒程度で音も静か。“計算”という事務作業の効率化・省力化に貢献しました。
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樫尾忠雄Tadao Kashio
29年間、社⻑を務める
1960年、樫尾忠雄は父・茂の跡を継ぎ、カシオ計算機の社長に就任。その後、1988年までの29年間にわたり、経営者としてカシオをけん引し続けました。創業期は経理の仕事を一手に引き受け、売上高や経常利益などが書き込まれた手帳を常に持ち歩いていた忠雄。専門家並みの知識を備え、誰も気が付かないような鋭い経営分析を行っていました。
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樫尾和雄Kazuo Kashio
新たな価値を発信する
広告宣伝
カシオの商品の広告宣伝も樫尾和雄の仕事でした。「カシオミニ」の発売時には、株式上場による資金を最大限に活用し、テレビCMなど広告宣伝に注力。「答え一発カシオミニ」というキャッチコピーが流行し、大ヒットを後押ししました。この他に「カシオトロン」や「G-SHOCK」でも、インパクトの広告宣伝を行い、世の中に新しい価値を発信していきました。
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樫尾忠雄Tadao Kashio
株式上場を実現
「電卓戦争」の最中、カシオの業績は毎年2倍のペースで伸び続け、既存の工場では生産が追いつかなくなっていました。新工場を建てるための資金、そして急増する運転資金の調達のため、1968年4月、樫尾忠雄は株式上場を決断します。1970年9月、東京証券取引所第2部に上場。この時集まった資金が、「電卓戦争」を勝ち抜く原動力となりました。
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樫尾俊雄Toshio Kashio
「カシオトロン」を発明
1974年、樫尾俊雄はカシオがこれまで電卓で培ってきたLSI技術を最大限に活用し、カシオ初の腕時計「カシオトロン」を発明します。“完全自動腕時計”という開発思想により、時・分・秒の表示はもちろん、大の月・小の月を自動的に判別する世界初のオートカレンダーを搭載。月が替わった日にカレンダーの日付を直す手間を省くことに成功しました。
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樫尾幸雄Yukio Kashio
電池で⻑時間稼働する時計を開発
1974年、カシオは日付修正の手間をなくすオートカレンダーを搭載した電子腕時計「カシオトロン」を発売します。樫尾幸雄は、時を正確に刻み続けるための“電子化”に注力。電子回路にはカシオ独自の設計による「CMOS-LSI」を使用することで、機械的な摩擦による寿命の衰えの心配をなくすことに成功しました。
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樫尾幸雄Yukio Kashio
リレー計算機「14-A」を改良
世界初の小型純電気式計算機「14-A」。基幹部品となる「リレー」は長男の樫尾忠雄と次男の俊雄によってつくられましたが、その後の改良を行ったのは四男の幸雄でした。計算機の耐久性を向上させるために、磁力で動く鉄片の可動部分に軸を通し、金属疲労の影響を受けにくい構造に改良。以後も、カシオのものづくりの屋台骨を支え続けました。
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樫尾和雄Kazuo Kashio
ニーズを捉えた価格設定
樫尾和雄は、世界初のパーソナル電卓「カシオミニ」の可能性を見抜き、反対する社員を説得して発売に漕ぎ着けます。しかし、「カシオミニ」をより多くの人に購入してもらえる商品とするために、価格設定には最後まで悩みました。その証拠に、販売当日の報道発表向け資料は印刷されたものでしたが、価格だけはゴム印が押されています。
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樫尾和雄Kazuo Kashio
電卓を
より多くの⼈に
「電卓戦争」の最中、カシオは他社より低価格な電卓「AS-8」を発売します。電卓を企業が使う事務機から、家庭で使える商品へ変える狙いがありました。樫尾和雄は、従来の訪問販売ではなく、町の文具店での店頭販売への切り替えを提案。有力な文具卸店と「カシオエイト会」を結成し、全国規模の販売体制を確立。電卓の購⼊できる場所を拡⼤しました。
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樫尾幸雄Yukio Kashio
⽉10万台の
電卓⽣産ラインを確⽴
パーソナル電卓「カシオミニ」の大ヒットにより、カシオは、樫尾幸雄が中心となり「電卓生産ライン」の抜本的な改革に乗り出します。その陣頭指揮を執ったのが樫尾幸雄でした。1972年7月より、甲府工場で「カシオミニ」の生産をスタート。その後、東京都八王子市にも新工場を稼働させ、急激な需要の増加に全社一丸となって対応しました。
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樫尾俊雄Toshio Kashio
「カシオトーン」を発明
幼い頃から音楽好きだった樫尾俊雄は「演奏の難しい楽器の音を自分の手で美しく奏でてみたい」という思いを抱いていました。そこで電子キーボードの「カシオトーン」を発明。さまざまな楽器を演奏するには、それぞれの演奏方法を習得しなければならないという常識を覆し、「誰でも手軽に音楽を楽しめる」という新しい価値を生み出しました。
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樫尾幸雄Yukio Kashio
「カシオミニ」を考案
ボウリング場のスコア計算が“手計算”だった時代。樫尾幸雄は「小さくて安いボウリング用の電卓をつくれないか」とひらめきました。社内の技術者と協力し、サイズは当時主流の4分の1、価格は3分の1に抑えた1万2,800円を実現する「カシオミニ」を開発。一家に一台の“電卓のパーソナル化”という全く新しい市場を創造しました。
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樫尾幸雄Yukio Kashio
⼯場のFA化を実現し、
⽣産を効率化
1985年、カシオの主要生産拠点であった甲府工場は、当時は珍しかったFA(ファクトリー・オートメーション)化を実現します。このFA化を率いたのが樫尾幸雄でした。電卓の部品挿入から取り付け、自動はんだ付け、ネジ締めまでの全工程を自動制御。1日8,000台もの電卓を生産するとともに、不良品の割合も5分の1となり品質向上にも貢献しました。
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樫尾忠雄Tadao Kashio
会社運営に尽⼒
樫尾忠雄は経営者として、人事・財務・経理・総務など多角的な会社運営に尽力しました。特に人事制度については、早くから全社方針として「実力主義」を標榜。学歴を問わず、実力のある社員を評価する仕組みづくりに勤しみました。また、「人は努力すれば、努力しただけ報われる」という哲学のもと「資格制度」を導入し、公平な成果配分にも努めました。
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