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樫尾製作所設立 | CASIO

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樫尾製作所設立

樫尾製作所設立 兄弟が集い、助け合う
樫尾製作所設立
兄弟が集い、助け合う
 
「兄さん、おれ手伝うよ」
 1931(昭和6)年、長男の忠雄は見習いの旋盤工として働き始めました。その後、働きながら早稲田工手学校(現在の早稲田大学)に通って技術を習得。いくつかの職場を経験し、1942(昭和17)年、近所の工場主の誘いで、実質的な独立を果たします。
第二次世界大戦の最中、多くの仕事が舞い込み、時間を忘れて仕事に励む日々が続きました。そんな時、「兄さん、おれ手伝うよ」と言ってくる弟がいます。次男の俊雄でした。俊雄は逓信省の東京電気通信工務局に技官として勤めており、休日に仕事を手伝ってくれました。当時学生だった三男の和雄も同様です。忠雄も不慣れな弟たちが作業をしやすいように専用の治工具を製作。三人の兄弟が協力し合い、順調に仕事を進めていきました。
 
樫尾製作所を設立し、
正真正銘の独立を果たす
 しかし、戦争が樫尾兄弟の行く手を阻みます。空襲で旋盤は焼け焦げ、家族全員が疎開を強いられました。
終戦を迎えると、樫尾兄弟は親戚が住む東京都三鷹市に転居します。忠雄は空襲で焼けた旋盤を何とか修理し、仕事を再開。鍋や釜をはじめ、敗戦直後の必需品だった電熱器や自転車の発電ランプ、顕微鏡の部品加工などの下請け仕事を手がけていきました。
半年ほど経つと、設備もある程度整い、忠雄は正真正銘の独立を決意します。1946(昭和21)年、忠雄は3名の若手従業員とともに、カシオ計算機の前身である樫尾製作所を設立。弟たちも手伝いながら、あらゆる下請け仕事をこなしていきました。
 
 
忠雄の「手仕事」に、
俊雄の「頭脳」が加わる
 しかし、時代は終戦直後。代金の支払いが未払いになることも日常茶飯事です。思うように成果が上がらず、苦悩する忠雄に俊雄が言いました。「兄さん、おれが何か考えるから、それを作ればいい」。当時、逓信省で革新的な通信システムの提案に携わっていた俊雄が、樫尾製作所に加わると申し出たのです。ですが、忠雄はこれを固辞します。出世のチャンスがある俊雄に幸せな人生を送らせる自信がなかったことが理由でした。それでも、俊雄は「どうしてもやってみたい」と譲りません。ついに忠雄はこれを承諾。忠雄の「手仕事」が支えていた樫尾製作所に、俊雄の優れた「頭脳」が加わった瞬間でした。
 
それぞれの
得意分野を生かし、
ヒット商品を開発
 俊雄は持ち前の発想力を生かし、数々の発明を試みます。そのひとつが「指輪パイプ」でした。戦後間もない当時は物資が不足しており、誰もがたばこを根元ぎりぎりまで吸っていました。そこで俊雄は仕事をしながらでも吸えるように、たばこを差せる指輪型のパイプを考案。忠雄が高度な旋盤技術を駆使して作り、引き合いは徐々に増加。二人の得意分野を生かし、「指輪パイプ」は作るそばから売れる大ヒット商品になったのです。
軌道に乗り始めた樫尾製作所。この「指輪パイプ」で得た利益が、後に計算機開発の資金として役立つことになります。
 
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