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電気式計算機への挑戦

電気式計算機への挑戦 四人の得意な技術を活かす
電気式計算機への挑戦
四人の得意な技術を活かす
 
「兄さん、
計算機をやってみよう」
 指輪パイプの次の製品を模索していた忠雄と俊雄は、1949(昭和24)年、東京の銀座で開かれた第一回ビジネスショウを訪れました。そこで目にしたのは、電動計算機。当時、自動車とほぼ同価格という貴重品でした。この電動計算機はモーターで内部の歯車を回す仕組みで、日本で主に使われていた手回し式計算機よりは速かったものの、現在の計算機と比べて非常に遅く、けたたましい騒音を出していました。
それを見た俊雄は、忠雄にこう言います。「兄さん、計算機をやってみよう」。俊雄は自分のアイデアと、忠雄の卓越した工作技術とを掛け合わせれば、複雑な計算機でも自作できると考えたのです。樫尾兄弟の新たな挑戦が幕を開けました。
 
四兄弟の強みを活かし、
日本初の電気式計算機完成
 俊雄は一日中机に向かい、電動計算機の遅さを解消する方法を考え続けました。考案したのは、ソレノイドという一種の電磁石を使うもの。歯車ではなく、すべて電気回路で処理すれば高速化できると考えたのです。
そんな中、1950(昭和25)年、三男の和雄が樫尾製作所に入社。1952(昭和27)年には、四男の幸雄も加わります。俊雄がアイデアを出し、大学で機械科にいた幸雄が図面を引き、忠雄と和雄が具体的な形に作り上げる。四兄弟は、息のあった分業体制で開発を進めていきました。
しかし、電気式計算機の開発は困難の連続。何度も失敗を繰り返しました。それでも、四兄弟の誰かが「もう一度やってみよう」と言い出し、次の方法を考えます。こうして四兄弟がお互いを鼓舞しながら開発を進めて4年あまり。1954(昭和29)年、ついにソレノイド式計算機の試作機を完成させたのです。
 
 
非情な「時代遅れ」宣告
 完成したソレノイド式の試作機は、約30キロ。ランドセルほどの大きさでした。「自動でよく計算ができる。画期的だ」。四兄弟は、自分たちで作り上げた、日本で初めての電気式計算機に大きな自信を持っていました。
さっそく四兄弟は、事務機器を扱う商社に依頼し、ソレノイド式計算機を見てもらうことにします。和雄がオートバイを運転し、幸雄が後ろに乗って計算機を抱えて運びました。担当者に説明するのは、四兄弟きっての営業力を誇る和雄です。実際に計算をして見せながら、計算機の機能を一つずつ説明しました。担当者は和雄の説明を聞き、こう言いました。「よくできています。ですが、あと5年早ければよかったのですが……」。それは、かけ算をして出てきた答えに、もう一度数字をかける「連乗機能」がついていないというものでした。
 
兄弟で支え合い、
“最善策”へ
 「がっかりするだろうな」。予想だにしない「時代遅れ」宣告を受けた和雄と幸雄は、重い足で帰宅し、この結果を俊雄に報告しました。しかし、俊雄は「うっかりしていたなあ」と一言。翌日には「連乗機能をつけるようにするよ」と、すぐに頭を切り替えたのです。
こうして俊雄を中心に、四兄弟は計算機の改良を進めていきました。開発資金が底を尽きそうになれば、長男の忠雄が資金集めに奔走します。「一日中机にかじりついている俊雄を見ている方が辛い」。指輪パイプの利益で買った山林を売却したり、銀行に頭を下げたりして、どうにか開発資金を集めてきました。
計算機の開発を始めてから足掛け7年目の1956(昭和31)年。計算機には「連乗機能」もつき、ついに量産まであと一歩のところまで到達します。そんな中、俊雄は突然「もう一度最初からやり直したい」と言い出したのです。俊雄の提案は、複雑な機械的機構を持ち、量産に困難が伴う可能性のあるソレノイド式をやめて、当時の電話交換機などに使われていたリレー(継電器)を使って純電気式の計算機を作ることでした。
 
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