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「14-A」開発に成功

「14-A」開発に成功 度重なる困難も、協力で乗り越える
「14-A」開発に成功
度重なる困難も、
協力で乗り越える
 
「発案・加工・改良」の
役割分担
 四兄弟は、忠雄と俊雄の指揮のもと、リレーを使った計算機の試作を進めていきます。俊雄が書いた図面を見ながら、計算機用の部品を作るのは忠雄。俊雄と6年以上も一緒に開発に取り組んできた忠雄は、図面のちょっとした変化で俊雄が何を考えているのかが分かりました。開発が進むと、今度は幸雄が改良を施すようになります。耐久性を上げる仕組みを考案し、リレー式計算機の開発は順調に進んでいきました。
さらに、欧州の電動式計算機を輸入販売していた大洋セールスという計算機の専門商社から資金援助も受けることができました。これにより開発は一気に加速。1956(昭和31)年、ついにリレー式計算機の試作機が完成します。そして、これを販売店や顧客向けにPRすべく、大洋セールスの本社がある札幌で発表会を開くことになりました。
 
必死の作業むなしく、
大失敗の発表会
 発表会には、俊雄と和雄が向かいました。しかし、空港で大きな災難が降りかかります。試作機の本体から上に出っ張っているキーと表示部分が規定を超えており、飛行機に積めなかったのです。そこは計算機にとって極めて重要な部分。配線も複雑で、一旦分解してしまえばうまく動く保証はありませんでしたが、外さざるを得ませんでした。
札幌に着いてから配線をやり直したものの、恐れていた通り試作機は動きません。俊雄と和雄は徹夜で復旧作業を続けました。ようやく足し算と引き算はできるようになりましたが、かけ算と割り算は結局できないまま朝を迎えます。俊雄と和雄はスライドを使い、必死に説明をしましたが、参加者から聞こえてきたのは失望の声。発表会は大失敗に終わってしまったのです。
 
四兄弟に訪れた「渡りに船」
 「これ以上、支援できない」。大洋セールスの顔に泥を塗ってしまった四兄弟に告げられたのは、取引破談の宣告でした。
ところが、しばらくして思いもよらぬ話が舞い込みます。事務機器や文具の卸会社である内田洋行の役員が樫尾製作所を訪れ、こう言ったのです。「おたくの計算機をうちの会社でぜひ扱いたい」。樫尾製作所の創業当初、下請けとして顕微鏡の部品を作っていた時に内田洋行と取引がありました。忠雄の作った高品質な部品で信頼を得ていたことが、お声がけを頂く理由の一つとなったのです。
その後、四兄弟は内田洋行の本社を訪れ、会長と面談。契約金ももらうことができました。契約金の一部は大洋セールスに返済。その他は、リレー式計算機の本格的な製造に使用し、開発は一気に加速します。
 
四兄弟の努力と協力が
ついに結実
 1957(昭和32)年6月、ついにリレー式計算機が完成。「14-A」と命名し、商品化に漕ぎ付けることができたのです。四兄弟の努力と協力が結実した瞬間でした。
11月には、東京・大手町のサンケイ会館で製品発表会が開かれました。会場に集まったのは、官庁や大企業などから集まった内田洋行の顧客たち。四兄弟は、内田洋行のセールスマンとともに製品の紹介を行いました。計算機は軽快に動き、参加者は「素晴らしい」と声を挙げます。「今度こそ、発表会を成功させることができた」と四兄弟は胸を撫で下ろしました。
「外国製に負けない、日本の技術で理想的な計算機を作ろう」と誓ってから実に7年。四兄弟の念願がついに叶ったのです。
 
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