電子式への転換 全力を結集し、経営危機を脱出
電子式への転換
全力を結集し、経営危機を脱出
全力を結集し、経営危機を脱出
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四兄弟でゴルフに熱中、
経営危機に -
会社の業績が順調に伸びる中、樫尾四兄弟が熱中したのがゴルフでした。性格も個性も違う四兄弟でしたが、こと遊びになるととにかく熱中。ゴルフもだんだんと回数が増え、2日に1回は行くようになっていました。
そんな生活が数年続いた頃、営業担当だった和雄が、内田洋行の担当者からリレー式計算機の在庫が積み上がっていることを知らされます。生産計画の大幅縮小も迫られました。その最大の原因は、電子式卓上計算機。つまり「電卓」の登場でした。1964(昭和39)年、シャープがトランジスターを使った電卓を発売。キヤノンも続きました。リレー式計算機と比べても格段にコンパクトで、計算のスピードも速い電卓の出現により、カシオ計算機は経営の危機に立たされたのです。
- 和雄の機転と幸雄の奮闘
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それでもカシオ計算機は、リレー式計算機にこだわり、最新型の発売を画策します。それは従来の5倍の演算速度を誇るリレー式の最新鋭機「81型」でした。
1965(昭和40)年春、和雄と幸雄は、販売店向けに説明会を開きます。開発者の俊雄は自信を持っていましたが、和雄は違いました。「セールスマンに逃げられてしまうかもしれない」。営業の最前線にいた和雄だからこその考えでした。
その懸念は的中します。「こんな時代じゃないよ」。冷ややかな声が浴びせられました。「もう帰ろう」。そんな声が出始めた時、和雄は言いました。「待ってください。カシオが研究している電卓をお見せしましょう」。和雄はとっさの判断で、開発途上の電卓を見せると宣言したのでした。説明役は幸雄です。リレー式計算機の最新型と同じ10桁の計算ができることを実演しました。「樫尾さん、これでいきましょう!」そんな声が飛びました。何とか心をつなぎ止めることに成功したのです。
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日本列島を四分割、
頭を下げる四兄弟 -
これを聞いた俊雄は「リレー式はもうやめよう」と、ついに電卓に切り替える決断をします。しかし、電卓に出遅れた代償は大きいものでした。製品の販売を頼っていた内田洋行が契約打ち切りを申し入れてきたのです。ですが、内田洋行は契約打ち切りの代わりに、自分たちの販売店との取引はカシオに引き継いでくれると言います。そのためには、販売店に説明して理解を得る必要がありました。四兄弟は、日本列島を4つに分け、手分けして全国の販売店を回りました。頭を下げると、皆快諾してくれました。
しかし、またも困難が訪れます。借りていたビルの立ち退き要請にも直面したのです。これには社長の忠雄が資金繰りに奔走し、これまで築き上げてきた銀行との信頼関係で事なきを得ました。
- 4カ月で電卓「001」を発売
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リレー式計算機からの撤退を決めたからには、一刻も早く電卓を発売しなくてはなりません。幸雄が電卓への生産体制の切り替えを担い、開発を進めました。そのわずか4カ月後。カシオは、ランドセルほどの大きさの電卓「001」の発売にこぎつけたのです。
しかし、販売網の再構築も大きな課題でした。販売店に直接卸すという新しい販売体制を確立しなければなりません。その時「おれがやろう」と和雄が言いました。和雄は持ち前の行動力を生かし、これまでに経験のない仕事もやってのけました。
四兄弟が力を合わせ、経営危機を何とか乗り越えることができたのです。