Skip to content

樫尾 俊雄 | CASIO

検索

Personal Menu

お気に入りに商品が追加されました。

樫尾 俊雄

Profile 樫尾 俊雄

樫尾俊雄は樫尾四兄弟の次男として、カシオ計算機の基幹事業となった計算機や電卓、時計、電子楽器を開発し、デジタル技術を使って世の中を変える製品を生み出した発明家です。
「鶴亀算」の計算を誰に教わるでもなく考案するなど、考えごとばかりしていた俊雄。12歳の時、エジソンの伝記を読んで発明家を志します。1940年、逓信省に入省してからも発明への情熱は燃え盛るばかり。長男・忠雄の会社に参加したのも、受注生産だけに頼るのではなく、何かを発明することで、兄を助けたいという想いからでした。
その後は、世界初の小型純電気式計算機「14-A」の発明に始まり、世界初のオートカレンダー付きデジタルウオッチ「カシオトロン」や、電子楽器など、人々の暮らしを変える情報機器を生み出します。カシオ計算機の開発部門トップとして、新しい商品を世の中に送り出し続けました。
俊雄は「発明は1%のひらめきと49%の努力、50%の天運によって得られる」という言葉を残しています。この50%の天運とは、兄弟に恵まれたこと。俊雄の発明を形にし、世の人々に届けてくれる兄弟がいたからこそ、「発明家・俊雄」は輝けたのです。

1925年1月1日、東京都生まれ。40年、電機学校を卒業後、逓信省に入省。46年に樫尾製作所に参加。カシオ計算機株式会社の技術部長、開発本部長などを務め、88年代表取締役会長に就任。2011年から名誉会長。藍綬褒章受章(1984年)、東京電機大学名誉博士号(2007年)。

樫尾 俊雄

発明は必要の母発明は必要の母

俊雄は、証券会社に勤めていた姉の職場によく通っていました。姉の仕事を見て、現場で「何が必要とされているのか」を読み取るためです。「ユーザーがまだ気づいてもいないような、必要性を呼び起こす発明をしなければならない」。洞察力に優れていた俊雄は、証券会社で働く従業員がまだ気づいていない「正しい答えを出す計算機」のニーズを掘り起こしたのでした。そしてデジタル技術で、身近に置けるサイズ、使いやすい表示とボタン、誤りが出ない計算回路をつくり、これを実現させました。
計算機、電卓、時計、電子楽器……。俊雄が発明し、カシオ計算機の基幹事業となった製品は全て、新しい常識を生み出してきました。「“必要は発明の母”という言葉は古い。ユーザーが求めているものを作るのでは遅すぎる。“発明は必要の母”なんだ」。それまでになかった、人が喜ぶものを生む。俊雄の発明の歴史は、まだ誰も知らない“本当に必要なもの”を作り出してきた歴史なのです。

リレー式計算機を開発し、弟の和雄とともに札幌の発表会へ向かった俊雄。しかし、羽田空港で計算機が積めるサイズの制限を超えていることが判明します。やむを得ず分割して発送しますが、会場では動かなくなってしまいました。兄弟や援助をしてくれた商社の担当者、会場に詰めかけた人々を裏切ってしまったという申し訳なさが俊雄を襲いました。その時、俊雄の脳裏に少年の頃から漠然と持ち続けてきたあるイメージが浮かびます。「人間の身体の中には1本のバネがある。バネが縮むときは苦しみの状態。だが、縮みっぱなしのバネなどなく、必ず元に戻ろうとするはずだ。今、自分が最高の圧力で縮まっている状態なら、この次は一気に伸ばせばいい」。失敗しても、次こそは成功させてみせる。これこそが、発明家・樫尾俊雄の信条でした。

俊雄が発明し、兄の忠雄が加工し、弟の和雄も幸雄も加わって完成させた、日本で初めての電気式計算機「ソレノイド式計算機」。しかし、計算機を扱う商社の担当者に「5年遅い」と告げられてしまいます。心血を注いだ開発の否定。それでも俊雄はすぐに「リレー式」へ方向転換し、3年足らずで世界初の小型純電気式計算機「14-A」を完成させたのです。「昨日のおれはバカだったんだ!」。これが俊雄の口癖でした。ミスや失敗、次々とやってくる試練をも発想のエネルギーに変えた俊雄。「昨日と同じことを繰り返すだけなら仕事をしていないのと同じ。どこが進歩したのか自分で分かるようにならなければだめだ」とも語っています。

子どもの頃から音楽が好きだった俊雄は、55歳の時、電子楽器の開発に取り組みます。「人が楽しめる楽器とは何か」。これを追求するために、俊雄は「音とは何か」ということから考え始めました。美しい音色とは何なのか。そして、それは人間の耳にどのように届くのか……。考えを巡らせ、着想を得たのは鳥の鳴き声でした。「動物は音楽を奏でます。しかし、なぜ、鶯は、ホーホケキョと鳴くんだろうか。なぜ、鶏はコケコッコーと泣くんだろうか。それは、自分と同じ種の鳴き声を聞きたいからです。これと同じように、人間も自分と同じ種の音を聞くことに心地よさを感じるはず。デジタル技術を使えば、どんな音でも作り出すことができますが、人間が本当に心地よいと感じるのは、“自然界にある音”だと思ったんです」。こう仮説を立てた俊雄はこの「自然楽器」の音の構成要素を分析。音が“子音”と“母音”で構成されていることに着目し、この2つを微妙に変化させながら合成して1つの音を創り出す「子音・母音システム」を開発します。さまざまな楽器の音色を鍵盤で楽しめる「カシオトーン」が完成した瞬間でした。俊雄は「どうすれば、人々が喜ぶのか」という仮説を立てることに長けていたのです。

俊雄の原動力――それは、0から1を生み出したい、つまり、世の中にないものを作りたいという純粋な想いでした。長男の忠雄は「俊雄は一旦考え込み始めると、何事にも関心を惹かれることなく、思索に一日中と言ってもいいほど没頭した」と語っています。俊雄の発明の信条は「紙と鉛筆さえあれば、発明ができる」。80歳を超えてもなお、“深く考え、紙に書く”ことを繰り返し、徹夜をして思索を続けました。俊雄は、その生涯にわたって“発明家”であり続けたのです。

「天才は99%の汗と1%のひらめき」。これは俊雄に発明家としての道を歩ませることになったエジソンの言葉です。しかし、俊雄は「発明とは、1%のひらめきと49%の努力と50%の天佑によって得られる」と説きました。俊雄が語る「天佑」には、本来の「天のたすけ」という意味の他に、2つの意味がありました。1つ目は、天から与えられた使命を意味する「天命」。俊雄は若い頃、発明とは「自分がやらねばならないこと」だと思っていました。「できる」という論理を確かめ、できるはずならできる。「必ず成功できるという信念を持つことで、発明へのエネルギーが湧いてくる」とも語っています。一方、時が経つにつれて、俊雄は発明とは「やらねばならないこと」ではなく、日頃の心がけによって呼び起こされるものだと思うようになりました。「社会のために働くことが発明の原動力になる」と感じるようになったのです。これは、現在のカシオ計算機の理念である「創造 貢献」に通ずるもの。社会に貢献しようと思うからこそ、世の中にないものを生み出すことができる。これが、発明家・樫尾俊雄の哲学でした。

Select a location