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樫尾 忠雄 | CASIO

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樫尾 忠雄

Profile 樫尾 忠雄

樫尾忠雄は樫尾四兄弟の長男として、創業期からリーダーを務め、カシオ計算機の基礎をつくりあげました。
忠雄は幼い頃から抱いていたのは、八人家族だった樫尾家の家計を助けるために「一刻も早く働きたい」という思いでした。14歳で旋盤工見習いとして就職すると、もともと手先が器用だった忠雄は「これは、おれの天職だ」と感じるほど加工技術の習得に夢中になります。樫尾製作所を設立してからも、次男の俊雄のアイデアを次々と形にし、「指輪パイプ」や「リレー計算機」の開発をけん引しました。
カシオ計算機株式会社を設立してからは「経営者」かつ「リーダー」としての役割に徹します。リレー計算機のヒットで会社の業績が伸びていく中、忠雄は経理を独学で勉強。持ち前の勤勉さで経営の知識を蓄えていきました。
常に家族のことを思い、誠実に仕事に取り組んできたからこそ、忠雄はカシオ計算機を着実に成長させることができたのです。

1917年11月26日、高知県生まれ。14歳で旋盤工見習いとして就職した後、早稲田工手学校を卒業。46年、樫尾製作所を設立。57年にはカシオ計算機株式会社を設立し、専務取締役に就任。60年から88年まで代表取締役社長を務めた。藍綬褒章受章(1980年)、勲二等瑞宝章受章(1990年)。

樫尾 忠雄

相手のためを思わなければ、得られるものもない。忠雄は人のためになることを常に優先して考え、共存共栄の関係を築いていました。
樫尾製作所の黎明期、鋼材を真球に加工する仕事の依頼を受けた忠雄は、持ち前の高い機械工作の技術を活かし、新たな加工方法を考案。1日に50個ほどしか加工できなかったものが、200個までできるようになりました。「これではあまりに儲かりすぎる」。そう思った忠雄は、発注元に価格の割引をしたいと申し出ます。「あんたは、正直の上にばかがつくね」と言われた忠雄。「企業は社会での貢献度に応じて、尽くした分だけ報われる」という忠雄のモットーは、この時から現れていたのです。

後に計算機の専門商社である大洋セールスから資金提供を受け、リレー式計算機の試作機を完成させた樫尾四兄弟。しかし、札幌で開かれた発表会で、機械が動かないという大失態を犯し、取引破談の宣告を受けてしまいます。その後、内田洋行から声がかかり、新たな契約を締結しますが、忠雄はこの時の契約金の一部を大洋セールスに返還することを決めます。「今まで協力してくれた人に迷惑はかけられない」。経営者として、忠雄が貫いたのは「相手に感謝し、共存共栄しなければならない」という想いでした。

食卓で一杯のごはんを指して、忠雄は言いました。「まず、お百姓さんが汗水流してお米をつくる。それを運んで、売る人がいる。炊くのに水を使うから、水道が必要だ。お茶わんを作る人もいなくちゃいけない。それからお母さんが炊いて、ここまで持ってきてくれる。一つのものにもこれだけ手間がかかってるのを忘れちゃいけない」
働いてくれた人への感謝をいつも忘れず、逆に頼む時には口癖のように「申し訳ないけど」と言っていた忠雄。「ものを買うときには“売っていただく”、売る時には“買っていただく”と思え」とも、社員には言っていました。

自分にできないことは、人を信じて任せ、支え合うことが忠雄の信条でした。
忠雄は常日頃、「うちには四人の社長がいる。みんなが欠点のある人間で、一人で経営の全部を完全にやることができないから、四人がお互いの欠点を補い合い、四人で一人の社長の責任を果たしている」と話していました。これは会社の規模が拡大しても揺らぐことがなく、組織構成には、四兄弟それぞれが各本部のトップとして責任を持つ「四本部制」を採用。経営のリーダーである長男の忠雄は「総務本部」、発明家である次男の俊雄は「開発本部」、マーケッターである三男の和雄は「営業本部」、エンジニアである四男の幸雄は「生産本部」の長を担うことで、それぞれの強みが活かされ、成長を続けることができたのです。

終戦後の焼け跡で工場の経営を始めた忠雄は、物資の大切さが身にしみていました。
リレー式計算機の製造に励んでいた、カシオ計算機の創業当初。当時社長だった忠雄は、社員たちを工場の裏のごみ捨て場に連れて行きました。忠雄は、ごみの山の中からまだ充分に使用できるビニール線の塊を拾い上げこう言います。「自然に対して申し訳ない。資源のない日本では、たいへんもったいない」。普段から「もったいない」が口癖だった忠雄。「ムダを出すな」と命令するのではなく、心に響くような伝え方をすることで、社員を導いていったのでした。

忠雄は人の意見に耳を傾けて尊重していました。多くの意見を出してもらうために、兄弟や他の幹部の間で徹底的に議論させる方法をとっていました。みんなの意見に耳を傾けた後、決まって忠雄は「では、こうさせていただきます」と決断します。一方的な意見を押し付けるのではなく、皆が納得するまで話し合うことで意思統一を図り、会社の向かうべき方向を決める。そして決断したことを責任を持って実行する。これこそが、忠雄のリーダーシップだったのです。

忠雄は「他人を気遣い、他人を立てる」謙虚な性格として知られていました。カシオ計算機の設立時には父の茂を社長に立て、株式上場時にも数々の発明をしてきた俊雄に最も多くの株式を配当。また、社員のことを「社員さん」、取引先の方を「お取引先様」と呼び、「大切なのは他人への誠実な態度だ」とよく諭していました。会社が大きく伸びている時には、ことわざの「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」を引用。「傲慢になってはいけない」と説いていました。入社式の朝に、密かに掃除夫の服装をして、新入社員が自分に挨拶するかを見ていたこともあったといいます。
また、社長であった忠雄には、重い責任や多くの苦労が伴いました。特に資金調達には一方ならぬ困難があり、計算機の開発資金に悩んだり、時には自分の家を抵当に入れたりすることもありました。しかし、そうした苦労を一切口にしないのが忠雄の信条。その苦労を知る人は、ごく一部の人に限られました。忠雄はその時の苦労を胸に刻み、経営危機に陥った取引先に融資をしたり、大学の研究に研究資金を助成する「カシオ科学振興財団」を設立したりと、他人を気遣うことを忘れませんでした。相手に誠実に相対する忠雄は、多くの人から慕われていたのです。

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