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計算機(けいさんき)の歴史

2024年8月5日


計算機ができる前は…

大昔、人間は、指を使って数を数えていました。
やがて「もっとかんたんに数を数えられる方法はないか?」と考え、どうくつのかべなどに絵をかき、しるしを刻(きざ)んで数を数えるようになります。そして次は計算した数字を動かせるように、木切れや小石などの「モノ」を地面にならべて数えるようになりました。

やがて、モノとお金の交換(こうかん)がはじまると、もっと便利に計算するための道具が必要になってきました。
そして、計算機のはじまりと言われている「アバカス」が古代ギリシャで誕生(たんじょう)しました。テーブルにひかれた線の上で、カルクリとよばれる小石を動かすことで、たし算や引き算をすることができました。

その後、中国や日本などのアジアでは、木の枠(わく)に棒(ぼう)をたてにならべ、珠(たま)がそれにそって上下する「そろばん」が使われるようになりました。たし算や引き算はもちろん、九九ができれば、かけ算やわり算もすることができました。

中国のそろばん(所蔵 東京理科大学近代科学資料館)

またヨーロッパでは「ネピアの棒(ぼう)」という計算道具も登場しました。これはそれぞれの面に数が書かれている四角い棒を組み合わせて、かけ算やわり算をすることができました。この考えは、17世紀には計算尺(けいさんじゃく)に引きつがれました。

ネピアの計算棒

計算尺

(ともに所蔵 東京理科大学近代科学資料館)

計算尺とそろばんは、世界の多くの国々で長いあいだ使われていました。

このように古くから人と計算は深い関係にありました。正確(せいかく)さや便利さをもとめて、人々はつぎつぎに新しい計算道具をつくるようになったのです。

世界最初の計算機はたし算だけ?

社会が発達し、外国との取引や税金(ぜいきん)をおさめる決まりができると、お金のやりとりを管理したり、カレンダーや、船で海をわたるための計算表などをつくったりするために、むずかしい計算がたくさん必要になってきました。そこで人々(ひとびと)は、計算を自動でしてくれる計算機をつくろうと考えるようになったのです。

そして1642年、フランスの数学者のパスカルが、世界ではじめての計算機を発明しました。それは歯車で動く計算機です。パスカルは、税金を集める仕事をしているお父さんが計算に苦労しているのをみて、楽をさせてあげたいと考え、計算機をつくったのです。

しかしこれはたし算しかできず、こわれてもパスカル以外になおせる人がいませんでした。つくるのにたいへんお金がかかり、計算機を使う人も少なかったので、広まることはありませんでした。しかしパスカルはくじけることなく、39歳(さい)で亡くなるまで、50種類の計算機をつくりました。

その後、1694年にドイツの哲学者(てつがくしゃ)のライプニッツが、パスカルの計算機をもとに、ハンドルを手で回して歯車を動かし、たし算やかけ算をする計算機を発明しました。この計算機の仕組みは20世紀なかばまで、3世紀にわたって使われたのです。

1800年代になると、イギリスで数学の先生をしていたチャールズ・バベッジが、大きなけた数の数字をあつかう天文学の計算を楽にするため、歯車を使った機械式計算機の「階差機関」(かいさきかん)をつくりました。

そして後にもっとむずかしい計算ができる「解析機関 (かいせききかん)」という計算機を考えましたが、当時の技術ではつくることが難しく、バベッジはこの計算機の完成を見ないまま80歳(さい)でなくなりました。「解析機関(かいせききかん)」は、いまのコンピューターのもととなる考え方で、そのアイディアは今でもたくさんの人たちにそんけいされ続けています。

はじめて電気で動いた計算機

20世紀に入り、科学技術が急速に発展しました。むずかしくて量の多い計算を、速く正確(せいかく)にできる計算機が求められるようになりました。

1939年、ドイツのコンラート・ツーゼは、飛行機の丈夫(じょうぶ)さをはかるために「Z1」という計算機をつくりました。続いてつくった「Z2」では、歯車ではなく、リレーという電気で動く部品を使いました。
そして1941年に、ぜんぶ電気だけで動く「Z3」という計算機をつくりました。「Z3」は計算した答えをおぼえて、その答えを使って計算することができました。ツーゼは「コンピューターの父」とよばれるバベッジのアイディアを、じっさいにかたちにした最初の人と言われています。

同じころ、ハーバード大学の大学院生だったハワード・エイケンが、アメリカ海軍とIBM社(アイビーエムしゃ)の技術者(ぎじゅつしゃ)たちと、3000個(こ)のリレーを使った“Harvard Mark I (ハ-バード・マークワン)”という計算機を完成させました。これは、すべて自動で計算できるものの、速度がまだまだおそく、たし算に1秒以上、かけ算には約6秒、わり算にはその倍かかりました。また幅(はば)15メートル以上、高さ2.5メートル、重さはなんと5トンちかくもありました。

そして、1946年、アメリカのペンシルバニア大学のモークリーとエッカートが「ENIAC(エニアック)」という計算機を開発しました。

この計算機はリレーのかわりに18,000本の真空管という電子部品を使った高さ2.5メートル、奥行き(おくゆき)0.9メートル、幅(はば)24メートル、重さ30トンもの巨大(きょだい)な計算機(けいさんき)です。その消費電力はなんと150キロワット。たし算をわずか0.8ミリ秒、時間のかかるわり算でも24ミリ秒という、おどろくべきスピードで計算することができました。ENIAC発表の場では「977,367を5000回かける」という問題をまたたく間に計算し、集まったたくさんの人々(ひとびと)をおどろかせました。

しかし、モークリ-やエッカートなどのすばらしい発明は、まだ計算機を研究している人々のものでしかありませんでした。そのころ、会社などでは、ほとんどの人が手でハンドルを回し、歯車で計算をする計算機を使っていました。

手回し式計算機(所蔵 東京理科大学近代科学資料館)

そのあとモーターでハンドルを回す計算機が登場し、少しは楽になりましたが、計算には時間がかかりました。音やしん動の大きさもなやみの種だったのです。

電気式計算機がみんなのモノに

アメリカで「ENIAC(エニアック)」が完成した1946年、樫尾俊雄(かしおとしお)は、「これからの世の中には計算機がなくてはならないものになる」と考えました。さっそく俊雄は機械づくりの名人だった兄の忠雄(ただお)と力をあわせ、計算機の開発にとりくむことにしました。俊雄のアイディアをもとに、忠雄たち兄弟が力を合わせて、ついに1957年に「14-A」という計算機をつくりあげました。

14-A

「14-A」は、リレーを使った電気だけで動く、はじめての小型の計算機でした。ボタンに反応(はんのう)するスピードも1ミリ秒とおどろくほどの速さです。
このころ、ほとんどの日本の会社が使っていた、モーターでハンドルを回す計算機は、大きな音をたててうるさく、ボタンに反応するスピードもとてもおそかったのです。「14-A型」は、静かで計算がはやく、しかも小さくて会社にも置ける、使いやすい計算機でした。
※リレー:継電器(けいでんき)。電気が流れると電磁石(でんじしゃく)がくっつく働きを使って、スイッチをつけたり離(はな)したりします。そのリレーの特徴(とくちょう)を利用し、スイッチのオン・オフを「0」と「1」にあてはめてつくったのが、電卓(でんたく)などのデジタル計算機です。

机にのる計算機の登場

1961年には、イギリスのサムロック・コンプトメーターという会社が、リレーのかわりに真空管(しんくうかん)を使うことで、つくえの上にのる小さい計算機「アニタ」を発表しました。つくえの上にのるほど小さくなったので、この計算機は電子式卓上計算機(でんししきたくじょうけいさんき)=「電卓(でんたく)」とよばれるようになります。
※真空管(しんくうかん):真空(しんくう)のガラス管に電極を入れたもの。電極から出た熱(ねつ)を使って、計算をする回路のスイッチのオン・オフをリレーより速く切りかえることができます。

1947年には、アメリカのショックレーが、トランジスタ※を発明していました。トランジスタは、リレーや真空管などにかわり、電卓(でんたく)の頭脳(ずのう)として使われるようになりました。トランジスタを使うことによって計算機は、計算が一気に速くなり、大きさも机(つくえ)にのるほど小さくなり、音もまったく出なくなりました。ボタンに反応(はんのう)するスピードは10 万分の1秒と、リレーにくらべてなんと1,000倍の速さでした。
トランジスタを使った最初の電卓は、1964年に日本で生まれました。
※トランジスタ:半導体(はんどうたい)という、ある時は電気を通し、ある時は電気を通さなくなるという性質(せいしつ)をもっている物質(ぶっしつ)でできています。電気のオン・オフをリレーや真空管などよりもはるかに速く切りかえることができます。しかもとても小さくできるので、コンピューターをはじめとする電子機械にたくさん使われるようになりました。

トランジスタ

そしてトランジスタよりも、さらにかしこいIC(アイシー)、LSI(エルエスアイ)が発明されると、電卓(でんたく)はさらに小さくなっていきました。やがて、電卓をつくる会社どうしが、値段(ねだん)や、小ささを競いあうようになりました。しかし、それでも電卓はまだまだ値段(ねだん)が高くて、持っている人は少なかったのです。

IC(所蔵 東京理科大学近代科学資料館)

みんなが使える電卓の登場

そこで「14-A」を生み出したカシオの人たちは、「ひとりが1台持てる電卓(でんたく)をつくれば、みんながよろこぶ」と考えました。そして1972年、当時は3万円~5万円くらいだった電卓を、日本全国をアッとおどろかせる12,800円という値段(ねだん)で発売しました。個人用電卓(こじんようでんたく)「カシオミニ」の誕生(たんじょう)です。

カシオミニ

「カシオミニ」シリーズはLSI(エルエスアイ)を使い、さらにそのころ使われていた電卓の4分の1以下の小ささで、1,000万台以上も売れる大ヒットになりました。これをきっかけに、電卓は、みんなが使える道具になったのです。

当時、いろいろな会社が電卓(でんたく)をつくったため、LSI(エルエスアイ)がとてもたくさん使われるようになりました。LSIがさかんにつくられるようになり、いまの使いやすいパソコンやスマートフォンなどもつくれるようになったと言われています。

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