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【発明の日】エジソンに憧れた父・樫尾俊雄を想う

2026年4月17日


カシオ計算機を創業した樫尾四兄弟の次男・樫尾俊雄は発明家でした。
世界初の純電気式計算機「14-A」を発明し、兄弟とともにカシオ計算機を立ち上げました。
その長男・カシオ計算機 常務執行役員 樫尾隆司が、発明の日(4月18日)に父に想いを馳せます。

常務執行役員 樫尾隆司の画像

カシオ計算機 常務執行役員 樫尾隆司

エジソンに憧れた父・樫尾俊雄

父・樫尾俊雄は1925年に生まれました。
父は小学生のときにエジソンの伝記を読んで感銘を受け、「自分も発明家になって人々の役に立つものを発明したい」と決心したそうです。物事の仕組みやアイディアを考え出すと、丸一日じっと座って考えているような少年で、「俊雄ちゃん、いたの」とよく言われていたそうです。
その生来の気質は、2012年に87歳で亡くなるまで続きました。

一流の発明家 でも不器用な人間

父は15歳で逓信省(現在のNTTに相当)に入省し、20歳のときにモールス通信の高速送信装置の特許を取得したり、新進気鋭の技術者として活躍していたようです。
その後、長兄に誘われて計算機の開発に乗り出します。とても絆の強い兄弟でした。次男である父が開発を担当し、長男はもともとは旋盤工でしたが、経営などを担い、兄弟と会社の「まとめ役」でした。活発で外向的な三男は営業を、手先が器用な四男は生産を主に担当していました。

白黒の写真

左:電機学校卒業時の樫尾俊雄/右:樫尾四兄弟とTyputer(左が俊雄)

父は間違いなく一流の発明家だったと思いますが、父として、人としては、とても不器用な人間でした。私は遅くに生まれた子ということもありますが、遊んでもらった記憶はほとんどありません。いつも書斎で夜遅くまで紙とペンで仕事をしている厳格な父、というイメージが強く残っています。家族の食卓でも、父がずっと頭の中で考えていたことをふと話し出したりするので、こちらは文脈がわからずうまく受け答えできず、父が怒ってしまうこともよくありました。
そんな人でしたから、いったいどんな人間関係を築いて仕事をしていたんだ…と不思議に思いますが、そこを支えていたのが兄弟だったのでしょう。兄弟がいたからこそ、父は発明に没頭することができたのです。
カシオ計算機の設立後も、様々な「世界初」や、独創性にあふれた技術を開発し続けました。80代になっても紙とペンを前に徹夜で考え事をしていました。

樫尾俊雄の画像

自宅の書斎にて

「開発者の気持ちがわかる人間になってほしい」

私も学生時代、一度は理系の道に進みましたが、父のようにはなれないと諦めました。父子らしい会話はほとんどなかったので、進路について父と話したことはありませんでした。カシオに入れとも入るなとも言われていませんし、入社したあとも仕事の話をしたことはありませんでした。
それが2000年代初頭、私のアメリカ駐在中に、何の用だったか、父と電話したことがありました。アメリカ駐在は自分にとって大変良い機会でしたが、一方で色々と悩みも抱えていました。そんな気持ちをポツポツと話したところ、父が「隆司は開発の道には進まなかった。が、開発者の気持ちがわかる人間になってほしい」と言ったのです。
父から自分への「願い」の言葉を聞き驚きました。前後の文脈はすべて忘れてしまいましたが、この言葉だけは今も強く心に残っています。初めて父から何か託されたような気持ちになりました。
私は開発以外の様々な職種を経験してきました。どの部門にいても、開発者の気持ちを尊重し、自身も開発精神を持った仕事ができるよう、心掛けていきたいと思っています。

樫尾隆司の画像

樫尾俊雄は発明を通じて自身の「パーパス」を実現し続けた人

父は不器用な人間であったからこそ、「不便」を見つけては思考し、様々な新技術・新製品を開発してきました。カシオ計算機として初めての発明となる純電気式リレー計算機「14-A」は、証券会社に勤める姉の仕事を見て、「煩雑な計算から解放してあげたい」という思いから作り上げました。
父は小学生にして「自分の発明で、人々を驚かせたい、役に立ちたい、社会を発展させたい」という、自身の「パーパス」(存在意義)を見つけ、その実現に人生を捧げたのだと思います。
これは当社が2024年に策定したパーパス「驚きを身近にする力で、一人一人に今日を超える歓びを。」と根底を同じくするものです。
父は発明でそれを実現しましたが、現代でも社員ひとりひとりが個性を発揮して、パーパスを実現し続ける企業でありたいですね。

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デジタル技術で「新たな常識」を作り出した発明家 樫尾 俊雄

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